morinosotohe

1997年生まれ

 

5月、この土地のお祭りがあって、はじめて金魚掬いをした。

金魚掬い屋さんは親切にしてくれたけどなんだかあんまりくわしくなさそうで、帰っていそいで調べた。餌を買ってきたり、水槽も通販で買って、わからないことは電車に乗って熱帯魚のお店に相談に行ったりもしたけれど、結局1週間足らずで、金魚たちを死なせてしまった。

お祭りのあと、縁日が開かれていた近所の大きな公園の噴水(噴水として機能しているところはみたことがなく、溜池のようになっている)には、びっくりするくらいたくさんの、金魚たちが、ぐるぐる群れをなして泳いでいた。あの金魚掬い屋さんは、おそらくは本業の人ではなくて、毎回のこりを捨てていってしまうのだと、あとから聞いて知った。

 

12月。きのう、アオムシをみつけた。食べ終えた無農薬の蕪のへたを、水につけて葉っぱを育てていたら、いつのまにか2匹そこにいた。屋内にしか置いていないし、寒くて換気もさぼっているし、孵化したのだとおもう。あわててプラスチックの容器に幼虫たちを移して、その日は寝た。

今朝、しおれた葉は捨てようと思って、まだ新鮮そうな葉とアオムシたちを残し、残したつもりが、色の擬態を空目したらしく、気づいたら1匹しかおらず、もう1匹は、おそらく、しおれた葉とともに、つぶしてしまった。ころしてしまった…と朝から呆然とし、悲鳴すら上がらなかったことについて思わされた。

 

アオムシは、警戒して動かなかったり隠れたりもするが、いどうするとき、うごく、その姿が愛らしい。

アブラナ科の葉、アオムシ、モンシロチョウ。そう調べて、はやく、新鮮な葉っぱを!そう思った。帰ってきて死んじゃってたらどうしよう…とうろたえながら日中の用事を終えて、帰路あわてて八百屋さんで相談をし、葉っぱに虫食いがたくさんある大根を買った。無農薬かはわからないので、虫がたくさん食べているのを信じた。

帰ってきて、よくよく洗い、よくよくよく水気を拭き取り、あげた。ら、糸のようなものに包まれていて、あまりうごかない。ちっとも食べない。まだ、ちいさいのに、1センチないくらいなのに、どうしたの?と思い、調べたら、なにかはわからないけれど、ともかく蝶とは蛹になる。糸を吐き繭をつくるならそれは蛾だと。

蛾は、蝶の100倍以上たくさんの種類がいるらしく、たくさん調べたけどどんな蛾になるのかはわからなかった。このままいくと、部屋で、ある日予期せぬタイミングで、なんらかの蛾がバサバサバサ!ということになるの!?と、きんちょうしてきたけれど、外がこんなに寒いので、追い出すことはできない。幼虫は、膜の薄い繭の中で、まだすこしうろうろしてみせてくれる。

Instagramのおすすめで、室内飼いの猫がカメラのほうへ歩んでくる動画、ちょっと変な歩き方がかわいい。アオムシみたい。

猫もアオムシもあんま変わんないのかも、と思う。ひとり暮らしの部屋に、わたし以外にもすやすやしてるのがいることに、なんだか安心している。猫も、アオムシも、わたしも、あまり変わらない。

 

きのうはアルバイトが終わって、通院とかをはしごした後、閉店後のお店にあそびに寄った。近所の定食屋さんでにぎってもらった塩おにぎりを持って。

店長たちは仕込みとかで遅くまでやることがあって、わたしはその日なんだかふらふらで、階段を上がって、毛布やブランケットが山積みの座敷ですこし横になった。階下から、知っている人たち、信頼している人たちの気配がかすかにしていて、ひとり暮らしの自室以外に、横になっていい場所があって、そういうことのありがたさと安心で涙がでてきて、必死でぬぐった。

おつかいを頼もうとしていたらしい店長が、階段を上がってきて、わたしが寝ていたので、暖房だけつけて降りていった。やっぱりありがたくて、毛布に包まり直して、また涙がでた。

今晩は、おうちのお布団にいて、だけどおなじ涙がでている。熱があるときみたいな涙で、でも、熱はないと思う。

わたしはいま15歳くらいで、と、時々おもう。対外的にも社会的にもそうはいかないけど、それでもこれはある程度適切な年齢で、だからこそ自分ではわかっておいてあげようと、心がけるのだ。

25年、ずっとつらくて、いなくなりたかったけど、この2ヶ月くらいは生まれて初めてそういうふうに思わなくなった。生き続けることを考えられるようになって、未来が楽しみになった。たすけてくれる、大人の人たちがいて、おうち以外にも居場所ができて、ごはんを一緒に食べてもらえたり、横になっても怒られない。15歳として、やっと恵まれてきたことを感じる。おめでとうだよ。

 

15歳は、学校へ行く自由があるはずだ、わたしは人に教わりたい。たくさん知りたい。それはほんとうのきもちだったけど、わたしが行きたいと思った学校には上京がひつようで、それはわたしにとって、ほんとうのきもちじゃないから、いろんなことを思ったりする。

金魚やアオムシを死なせてしまったとき、わたしはとても、耐えられなかった。それが、もし、だいすきな母方の祖父と、お別れの日が来るとしたら、いったい、どうなっちゃうんだろうね。そういうことっていつ来てもおかしくないの、わかっているのに、互いに会いたいのに、会えないままでいるのは、わたしが家族を捨ててしまったから。

長生きしてほしい。またいっしょに川であそびたい。バーベキューをしたり、もうしんじゃったけど犬のリキの散歩にもほんとは一緒にいきたい。

わたしは、血のつながっている人たちのところに、きっともう帰らないけれど、それでもおじいちゃんが生きていてくれるうちは、この土地を離れられそうになくて、人生のことを、まだなにもわからない。

うそも、ずるも、きらい。ばかにするのも、きめつけるのも、きらい。見逃さないように、失ってしまうまでを、ちゃんと生きていきたい。

繭は、こわれて、それから、夏に観た舞台が、ずーっと繰り返している、わたしの中でもずっと。